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乱読感想文<児童書編>

2011年も五カ月が終わってしまった。
時が経つのは早いな。
ふとした瞬間に、次気づいたら30年くらいたっていて
親と同じくらいになっていたらどうしようとか、
死を前にして焼かれるとき本当に意識はないんだろうかとか、
そんなこと考えていたら、生きていけないのですぐに打ち消す。

小学生くらいで活字も段々慣れてきて、
ちょっと長い本も読んでみようっていう段階に読む本。
これって本を読むか人になるか、読まない人になるかの
分岐点なんじゃないかって思う。
わたしなんていまになって児童書読んでるくらいだからね。
以下、児童書の感想をメモすることにする。


『十五少年漂流記』 ジュール・ヴェルヌ(1828-1905):作、波田野完治:訳

少年たちの無人島生活を描いた元祖無人島もの。
夏に船旅を予定していた少年たちは乗った船が知らぬ間に港を離れ
漂流してしまう。流された先の無人島で二年間もの間そこで生活し、
無事、戻ってくるまでが書かれている。

少年は十五人もいるけれど、
描かれているのは、主人公のブリアンと彼を嫌っているドノバンと…くらい。
作者がフランス人てこともあり、
アメリカ人もいれば、イギリス人もでてくるけど主人公はフランス人。
しかも、十五人全員のキャラクターは明確ではなく、
人が描かれるというよりかは、冒険譚が淡々と描かれているといった感じでなのである。

SF小説だからしょうがないとは思うけれど、
もっと人間にスポットを当てて、葛藤とか悩みとか、
無人島生活での苦しみをこれでもかと描いてほしいのにな、と思った。

そのもやもやは、NHKのアニメ『無人惑星サヴァイブ』が解消してくれた。
これは十五少年漂流記の現代版。
少年少女6人と一匹が宇宙を旅する修学旅行中に重力嵐にあって、
地球らしき惑星の無人島に住むってお話だけど、
個性豊かなキャラクターがそれぞれ悩み衝突しながら成長していく様が
ありありと描かれていた。
でも、もうちょっい色恋なんかがほんの少しでもあればいいのにな、
とまたしても今一歩物足りなさを感じるのであった。



『ニルスのふしぎな旅』 セルマ=ラーゲルレーヴ(1858-1940):作、山室静:訳

こどもの頃、赤い帽子にチョッキを着たニルスが白い鳥に乗っている姿を
テレビで観たのを思い出す。
自分がいつ頃観ていたのか、内容も殆ど思い出せないくらい昔だけれど
今になって見返してみると「うんやっぱり観た気がする」と
ぼんやりだけれど、そういう気がしてくる。

小説の方は、ニルスが主人公であることは明白であるにも関わらず、
同一の視点で書いてくれればいいものの、視点がずれたり、
児童書特有の三人称が何だかなぁ、と感じることもあって読みづらい。
だけど、ニルス少年がいたずらっ子という設定にまず共感を覚え、
そして彼が小人にされて、ひたすら困って、困って、
二転三転していくところがおもしろく描かれる。

何より一番の敵であるキツネ(小説ではずる公、アニメではレックスという名)が
ひどいくらいに、ずるがしこい悪者として描かれ、
何とも愛すべきキャラクターなのだ。(人気者だったんじゃないかって思うんだけど、どうだったんだろ?)
スウェーデンの南から北まで渡り鳥といっしょに旅をしながら
少年が動物とともに成長していく過程を描き、
なにより自然を重んじているところが、さすがノーベル文学賞という気がする。

それでも小説は痒いところに手が届いてない感じがあって、
アニメではそれを解消してくれているのが、なんともすっきりするのだった。



『マチルダはちいさな大天才』 ロアルド・ダール(1916-1990):作、宮下嶺夫:訳

ダール氏の書く物語はどれもエンターテイメントに満ちていて、
小説しか書いていないような人とは明らかに違う気がする。
この人が脚本家でもあったからだろうか。

登場する少年または少女が悪いことを平気でやってのける。
それを物語は、決して止めたりはしない。
むしろそれを正当化して、どんどんと突き進む。

この本の主人公マチルダもそう。
悪しき父親に仕返しをするためにささやかないたずらを仕掛けていく。
いたずらは、成功!
少女は報復を受けるのかと思いきや、そうではない。
勧善懲悪で父親は「悪者」。少女の行いは「善」なのだ。
たしかに親はマチルダを明らかに毛嫌いしているし、理解も示していない。
悪い親。
それでも「親」ではないか、とかいう意見が飛んできそう。
親といえど、別の人間。割り切った関係。
良く考えたら、昔話にでてくる親元を巣だって幸せになる話は
西洋では普通であったか。
マチルダは学校の先生にも反抗する。
より「自由」に、より「可能性を広げる方に」と向かっていく。
結末は、ある意味驚きに満ちている。
ある「大人」や「親」が読んだら納得できないと言うかもしれない。
でもこの物語は少年少女のものだ。


『雨やどりはすべり台の下で』 岡田淳(1947- )

日本の作品も。
これが書かれたのは1980年代てこともあって
いまの子供が読むとしたら、ちょっと古臭い感じを受けるんじゃないかなと思う。
全体として不思議な雰囲気を醸し出していて、
雨の日に静かに本読むのが好き、みたいな子はすごく好きなお話のような気がする。

十人の小2から中1までの男女十人が公園で遊んでいて、
雨が降ってきたから、すべり台の下で雨宿りするのだけど、
急に雨が降ってきたのは、さっき通りかかった「雨森さんのせい」じゃないか
という話題になる。
「雨森さん」というのは近所のアパートに住んでいる男の人なのだが、得体がしれない。
それで十人がひとりずつ(1章ごとに)雨森さんにまつわる不思議な話をしていく…
という展開になるのだが、この一つ一つが奇妙な物語。
ありそうでありそうにない話。
子供がつくった作り話かもしれないし、本当かもしれない。
どの話も夢があって、不思議だけれど、ちょっとステキな気分にさせられる。
(特にちょうちょが人間になって現れる所は、日本文学っぽいと思った)
十人全部が話し終えて、最後、彼らはあるひとつの意見にまとまっていく…。

オムニバスのようで、それらは繋がってあるものを積み上げていって
最後にひとつになっていく。
一見無駄話のようなお話は、心がひとつになって
まとめてくれているところが、何とも感動的。
現実にはない奇跡こそ、フィクションの醍醐味。


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