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大地震から一カ月以上たったけれど、
震度5以上の余震は頻繁に多発していて、
一体何回起こったのだろうと思って調べてみたら、
2011年3月12日から昨日(2011年4月14日)までの間で、
27回もあった。
http://www.seisvol.kishou.go.jp/eq/suikei/eventlist.html被害にあわれた方、犠牲になられた方々とご
遺族の方にはお悔やみを申し上げますm(_ _)m
人間は生死の境にきてようやく本当の力を発揮すると思う。
ここは日本の正念場だし、窮地があるからこそ、
まだ問題は山積みだけれど、今まで以上に日本を活気づけてくれる
起爆剤なんじゃないか。
そう思いつつも、テレビやあらゆるところで「がんばろう日本」とか
むやみやたらにいわれるのは何だか気持ちが悪いと思ってしまうのは何故だろう。
そういう言葉や励ましは人と人との間で交わされるものであって
公共の電波で堂々というようなものじゃないと
感じたからかもしれない。
地震の揺れは死んでいた私の心も揺さぶった。
生きながらにして死んだも同然の私。
社会から断絶し、社交をせず、何日も家にこもり、
ただ食べて、排泄し、読んで、書いて、見て、ねむるだけの生活。
誰かは反論するだろう。読んで、書いて、見てるじゃないかと。
でもそんなひとりで完結できる動作だけを繰り返していると
息苦しくなってくる。
私小説家である西村賢太さん(実際にいたらきっと共感できないと思うのに)
彼に共感するほどに、静かに、緩やかに、気がつくと心は捕らわれる。
生きていることの無意味に縛られて身動きができなくなるのだ。
どこかの会社や組織にいれば、仕事は嫌でも降ってくるし、
ちょっと目を凝らせば、周りに山ほど仕事は落ちていて
常に誰かに見られていて(それは窮屈だけれど)、
そこには責任があって成果があって、報酬がある。
たとえ、私が小説を完成させなくとも、
たとえ、私が何も書かなくても、誰も困らない。
ただの凡人である私が偉そうにいえることなど、ひとつとしてあるだろうか。
声を大にしていうほどの、いいたいことがあるだろうか。
そう考えれば考えるほど、それは「ない」ように思えてくる。
それは、この世の中で、自分の存在が無意味であり、
一人くらい死んでも何も変わらないという考えと同じである。
やってもやらなくても同じという結論はループする。
すべての法則に、その答えを導こうとする脳があるのだ。
しかしそれは間違っていると私は否定する。
否定しても、悪魔は誘惑してくる。
やってもやらなくても、何も変わりはしない。
もしやらなかったとしても、死ぬわけじゃない……と。
それでも、書き続ける、
何かを自発的に能動的であり続けるためには、何が必要か?
それには自らを他人化して期待する心を持つことだ。
人は誰かに期待することはできても、
自分にはなかなか期待しない。
自分に期待する、という行為は難しいからだ。
だけど、自分を他人を想うようなところに置いてみて考えてみれば、
そこに期待が生まれる。
他人に新しい、面白い物語を提供してくれることを期待するみたいに、
自分に新しくて、面白い物語を書くことを期待する。
それが、創造力を発揮するための安定した心を
維持させることができる方法だ、
と思ったのだ。