気がついたら23時になっていた。
17時から始まった集会は6時間の間、途切れず、盛り上がり、話に花が咲いて、何とも刺激的だった。私は1時間半遅れで参加したのだけど、23時になるまでの一度たりとも時計を気にすることも忘れて会話に夢中だった。
シナリオセンターに通う、シナリオライターを目指す5人。
年齢も職業も考え方も一点も交わることのないメンバー。唯一共通することは、創造する楽しさとつらさを知っていて、人生の岐路に立っていて、自問自答、自分と格闘しながら、脚本を書き続けているということ。
シナリオを書く―という行為は、映像を脳裏に思い浮かべ、それをシナリオという形式に変換していく作業のこと。それぞれの、“書き方”を聞いているととても不思議な感覚に陥る。
この地球上にいる様々な動植物の中で、唯一、創造し物を作るということが特異的に際立った能力をもった生物。個々の能の記憶中枢からランダムに呼び出される、無数の記憶の断片の組み合わせはフィクションになって、人間が産まれ、動き出し、ドラマティックな人生を歩みだす。それは、まるで、遺伝子が交差し、多様性が産まれる瞬間の様だ。なんて、素敵な行為だろうか。楽しくて仕方がない(?)、でも作り出すことの苦悩は激しい。
人は自分という自我がありながら、全く別の人格を自分の中に作り出し、それを使うことができる。でも、自我と仮想のキャラクターが会話しながら、「それじゃ面白くないよ」とか「それいいね!」とか、いいながらコントロールしているのだ。
書き方や考え方や造り方は一辺通りではなく、これが決まりというルールはない。できあがった作品にも、良し悪し、批評や褒め言葉や、様々な視点があっていい。答えはない。答えはないからこそ、終わりのない、議論は続く。答えの決まっていない議論をするのは楽しい。
でも、作品には必ず、面白いものとつまらないものがある。どんな創造をしたって、悪くない。別に何をやってもいい。だけど、人には、「面白い」と“感じる”感情があって、シナリオライターはきっとその“面白くする(=脚色する)”ルールを使いこなせてこそ、なれるものなのかな、と思う。
果たして、将来、私たちは笑って祝杯をあげられるだろうか。
夢見る5人の顔を思い浮かべて、何だか気持ちが高ぶってしまう。人生相談に乗ってくれた真面目でムードメーカーのSさん、活字中毒で、笑い方が優しくて場を和ませてくれるTさん、広告代理店を辞めて藝大の大学院に入学した、元気で可愛らしいKさん、生活と人生と仕事と自分の好きなことに格闘している、二枚目のAさん、今日はありがとう。