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フェティシズム

『装飾とデザイン』(山崎正和著、中央公論新社)が面白い。
造形に関する考察を、ものの見かたや考え方、そもそも形とはどうやって生まれたかを人間の歴史や文化から切り込む。
装飾やデザインについて語り、芸術とは何かという最大の問いに挑んでいる哲学的な本である。難しいテーマに対して文章は非常に読みやすく、身体に溶け込まれるようにして書かれている。

その中の一部に物神崇拝(フェティシズム)が例えとして出てきた。子供が何気ないものに対して執着を持ち、「宝もの」や「お守り」にするという意識が「自分自身の存続」を感じることのできる方法にほかならないということが書かれている。
それは、大人になっても、子供の頃集めたものや思い出が捨てられず、捨てようとするとかすかに胸が痛むようなことで名残りが残っている。とりとめなく過ぎてゆく時間の中で、個人の失われた過去を思い出せ、自己の同一性の不安を呼び覚ますとともに、その不安にたいする慰めとなる、という。

「あれがある」という思いは、それを思い出す自分自身の変わらなさの保証だというのだ。

お盆は実家に居た。
実家に行くと、過去の産物がいろんなところに落ちている。
殆ど捨ててしまって、なくなってしまったものの方が多いが、ソウタが欲しいというので、昔、半狂乱的に遊んでいた『UNO』を探してみたが、残念ながら、みつからなかった。
私は捨てることをあまり躊躇わない。捨てて次の自分に生まれ変われるなら、何度でもリセットしてもいいと思っている。けれど、過去は消せないのだ。高校の時の同級生が声をかけてくれて、同窓会を兼ねたバーベキューに参加した。
何しろ10年ぶりなので、慌てて卒業アルバムを引っ張り出してきて、顔写真と名前を見て記憶を探ってみた。

せっかくの予習にも関わらず、同窓会に行くと、よくあるシーン、
「誰だっけ、この人。名前が思い出せない!」
に早速出くわしてしまった。
「格好良くなっていて誰だかわからなかった」とか気の利いた言葉でもかければよかったのだろうがストレートに名前を聞いてしまった。

当たり前だけれど、10年も経てばオトナになっている。一日前に見た写真とは同じ顔立ちでも明らかに見えない何かが変わっていて、そこには新しい家族や10年で築き上げてきたものがあるってことが見えた。
そこに居る人は変わらなくても、もうその思いは変わってしまっていた。ここからも、いまの自分は「造られて」いったんだと思った。

昔付き合っていた人との再会。
緊張と恥ずかしさがなぜか伴う顔合わせ。近況を話しながら、過去があったことを確かめてしまう人間って、いつでも自分の存在を確かめていたいのだろうと実感する。古毛布にお守りの安心を感じ取る子供と同じように。そんな感覚がだんだん気持ち悪くなって、それを払拭するように、その一日を写真の中に閉じ込めた。

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