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京都芸術センター

小学1年生のときの担任の先生が京都好きということもあって、ソウタに京都の庭園を見せたいと思っていた。というわけで、京都へ。休み(?)ということもあって、観光地は、修学旅行生や観光客で溢れていた。中学生や、高校生のグループに遭遇するたび、新鮮な会話のやりとりを盗み聞きして、関西弁って新鮮だわ~、青春だわーなんて思っていた。

伏見稲荷神社の「おもかる石」というのに遭遇し、“この灯篭の前で願い事の成就可否を念じて石灯篭の空輪(頭)を持ち上げ、そのときに感じる重さが、自分が予想していたよりも軽ければ願い事が叶い、重ければ叶い難いとする”と書いてあって、
早速…ソウタからお願いごとをした。(こどもに試させる、困った親だ・・・)
石を持ち上げると、何と軽々と持ち上げるではないか。肩に乗っけて…おおっと、あぶない、落ちそう!と思って周囲がどよめいた時にやっと手助けをした。
さて、自分も…と、お願いごとをして石を持ち上げたときの重さと言ったら、重くて…持ち上げられなかった。「お願いごと」は予想をはるかに超えて、叶い難いということなのだろう。ショック…(泣)

おもかる石


道は一つしか選べないから、どちらかを進むしかない。

伏見稲荷


中学校の修学旅行で周れなかった名所と、もう一度行きたいところを足が棒になるまで歩いて、こりゃ絶対筋肉痛になるよってまで歩いて、歩いて、数か月分の運動不足を解消するかのようだった。そんなアクティブなスケジュールにも関わらず、子どもはへっちゃら。さすが・・・

そして、京都に行っても現代アートも欠かさず。
京都芸術センターで『Thinking Print vol.2-Alternative ways of Photography もう1つの写真表現』を観た。

京都芸術センター


元は明倫小学校という学校の校舎であり、建物としての風格があり、昔に戻されたような時間の感覚と雰囲気がとても印象的だった。物語が書けそうな舞台のような空間。

京都芸術センター中


ギャラリーで観た写真展では、京都の芸術大学を中心とした若手作家の作品郡。印象的だったのは、藤永覚耶さんの作品と、加納俊輔さんの作品。
ソウタは、sushiのゲーム…(名前忘れた)を繰り返し、ずっと観ていた。「このゲームあったら欲しい」だって…

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シナリオライターの夢

気がついたら23時になっていた。
17時から始まった集会は6時間の間、途切れず、盛り上がり、話に花が咲いて、何とも刺激的だった。私は1時間半遅れで参加したのだけど、23時になるまでの一度たりとも時計を気にすることも忘れて会話に夢中だった。

シナリオセンターに通う、シナリオライターを目指す5人。
年齢も職業も考え方も一点も交わることのないメンバー。唯一共通することは、創造する楽しさとつらさを知っていて、人生の岐路に立っていて、自問自答、自分と格闘しながら、脚本を書き続けているということ。

シナリオを書く―という行為は、映像を脳裏に思い浮かべ、それをシナリオという形式に変換していく作業のこと。それぞれの、“書き方”を聞いているととても不思議な感覚に陥る。
この地球上にいる様々な動植物の中で、唯一、創造し物を作るということが特異的に際立った能力をもった生物。個々の能の記憶中枢からランダムに呼び出される、無数の記憶の断片の組み合わせはフィクションになって、人間が産まれ、動き出し、ドラマティックな人生を歩みだす。それは、まるで、遺伝子が交差し、多様性が産まれる瞬間の様だ。なんて、素敵な行為だろうか。楽しくて仕方がない(?)、でも作り出すことの苦悩は激しい。

人は自分という自我がありながら、全く別の人格を自分の中に作り出し、それを使うことができる。でも、自我と仮想のキャラクターが会話しながら、「それじゃ面白くないよ」とか「それいいね!」とか、いいながらコントロールしているのだ。

書き方や考え方や造り方は一辺通りではなく、これが決まりというルールはない。できあがった作品にも、良し悪し、批評や褒め言葉や、様々な視点があっていい。答えはない。答えはないからこそ、終わりのない、議論は続く。答えの決まっていない議論をするのは楽しい。

でも、作品には必ず、面白いものとつまらないものがある。どんな創造をしたって、悪くない。別に何をやってもいい。だけど、人には、「面白い」と“感じる”感情があって、シナリオライターはきっとその“面白くする(=脚色する)”ルールを使いこなせてこそ、なれるものなのかな、と思う。

果たして、将来、私たちは笑って祝杯をあげられるだろうか。
夢見る5人の顔を思い浮かべて、何だか気持ちが高ぶってしまう。人生相談に乗ってくれた真面目でムードメーカーのSさん、活字中毒で、笑い方が優しくて場を和ませてくれるTさん、広告代理店を辞めて藝大の大学院に入学した、元気で可愛らしいKさん、生活と人生と仕事と自分の好きなことに格闘している、二枚目のAさん、今日はありがとう。

アート講座

芸大の7月以降に開講する公開講座の申し込みを出してきた。
募集が多い場合は抽選らしいので、当るかわからないけど。時間の許す限り芸術の傍にいたい。そう思うこのごろ。大学の公開講座って、結構いろんなところでやっているって、知らなかった。サラリーマン生活だと、平日は確実に無理なので、休日やってくれると嬉しいんだけどな。
東大の公開講座も迷った挙句、出さなかった…。全然勉強してこなかった興味ある分野とか、とても興味ある。聞ける限り、面白そうな講義は聴いてみたい。

森美術館でも「MAMアートコース」が開催されるそうだ。

アートが社会にできること。これからのアートを学ぶ。森美術館 「MAMアートコース」開設(森美術館 プレスリリース)

第1回「あなたの中のアートが社会へ開かれる時」
日時:2008年5月23日(金)19:00-21:00
出演:宮島達男氏(現代美術家/東北芸術工科大学 副学長)

第2回「現代アートを買ってみる?―アートマーケットの最新情報」
日時:2008年6月30日(月)19:00-21:00
出演:辛 美沙氏(アートフェア東京 エグゼクティブディレクター、Misa Shin & Co.代表)

シャキーン!

きょうもしんどい一日だった。
そんな次の日の寝不足も一瞬で目覚めさせてくれる番組、「シャキーン!」(NHK教育、月‐金の朝7:00-7:15)を4月頭から毎朝、欠かさず見ている。

朝からテレビなんてつけて学校に遅れてしまうことを懸念して、テレビつけない我が家の朝も私が観たいがために、7時になると、ついついつけてしまう習慣になってしまった。丁度、15分で終わるので、30分に出て行くタイミングとしては、悪くない。

あやめちゃんとジュモクさんが、司会進行しながら、朝から、バンバンクイズやら、頭の体操やらを流してくる。そして、ついつい、それに見入って、思考することから、目が覚めるという仕掛け。月曜日から金曜日まで毎朝放送していて、毎日流すコーナーと、曜日ごとに内容が決まっている

お気に入りは、『30秒の世界』。

30秒間の映像の中で、何かをカウントする。
説明はない。
単に、30秒の映像とカウンターが上がっていくのだけが流れる。
例えば、営業マンが電話の中で何回「すみません」を言っているかとか、お母さんが、電話で何回「はい」を言っているかとか、今朝は新聞に折り込み広告を30秒で何回入れているか、だった。

るるるの歌』なんて、一度聞いたら、耳から離れなくて、大変。
ソウタと換え歌を作って遊ぶ。楽しい。


るるるの歌


ものローグ』なんて、環境問題を訴えているのに、笑えてしまう、コントだったりする。



夜遅い電車に乗って帰ってくると、乗っているサラリーマンは、大抵、疲れた顔をしている。
飲んでたり、疲れきっていたり。
自分も相当、酷い顔してんだろうけど、ちょっとだけ自分に、ほんのちょっと余裕があれば、そんな疲れた顔のダイジェスト―目が閉じたり開いたり、立って寝ていたり、髪も化粧もぼろぼろの人とか、ユラユラしている人とかを見て、「ああ、おつかれさま」って言いたくなって、
癒しとまではいかないけど、ちょっとだけ、疲れから浮上する感じ。
そんな「疲れた人のダイジェスト」が夜の番組であったら、嬉しいのになって、ちょっと思った夜だった。

アートアワードトーキョー2008

今年もふらふらと東京駅の行幸地下ギャラリーへ。
ここは、丸ビルと新丸ビルの間にある地下道。広いし、人通りはすくない。でも、暗くはない。

アートアワードトーキョー2008 (2008年4月4日-5月6日)
 
アートワードトーキョー2008


ここでは若者の作品の意欲作が見れる。

アートアワードトーキョー


印象に残ったのは…
《キューティ30分クッキング》 Limocon: 酒井基子/高木梨羅
《肉とポンプ》高木久美
《ダサイワールド 2ジュウの塔》村上滋郎

その後、《竹の森》アンテ・ヴォジュノヴィックを観に行った。

竹の森


白く塗られた竹がたくさん釣り下がっていて、森のようになっている。その中をヘルメットを被って、中に入る。子供達が楽しそうだった。もちろん、ソウタもいつのまに森に入って…私も中へ…


非現実の王国で ヘンリー・ダーガーの謎

会社で今年度のお高い目標が掲げられたその日の夜、照明の落ちたお店で同期だけ集まって、お酒を飲んでいた。暗いせいか、ざわざわとした感情や撒き戻しの再生が行われていて、念願の関西移動の同期の気持ちに付いて行ってなくて、これから起こるであろう怒涛の業務と、上司の「俺は100%やる気だ」というセリフと、シナリオが書けなくなるんじゃないかって澱んだ不安と、久しぶりにあった同期との距離間や感情がぼやけてきて、土地の話をしているのに、「どこに行きたい?」という質問に対し、ついつい「精神的な世界に行きたい」などと恥ずかしいことを口走ってしまった。

精神的な内面の空間とは一見、無限の広がりがあるように思えるけれども、実際には壁だらけなのかもしれない。それでもその壁を乗り越えて、新たな空間の広がりを見たい。もしかしたら、見たこともない世界があるかもしれない、と思う。視覚から入ってくる現実の景色とは想像もつかない、そんな体験をしたいと思う。

きっと、ヘンリー・ダーガーも、そんな精神世界に生きていたんじゃないかって思う。

現実の彼は掃除の仕事をしながら、ひっそりとそして淡々と地味に独り身で生涯を生き抜いた。その間、彼は部屋の中で、数万ページに渡る膨大な小説と挿絵を描き、少女達が繰り広げる「非現実の王国」を造り上げていったのだ。

彼の世界に入ってみたい、と思い立った私はとりあえず、『非現実の王国で ヘンリーダーガーの謎』というドキュメンタリーを観に行った。

ヘンリーダーガー


最初に見た時、素直に受け入れられない不思議な絵だなと思った。そこには、何か得体の知れないものがあるような恐さが漂っているような気がした。絵本の挿絵のような明るい色調で何人もの少女の姿が描かれている。「少女」という無垢で純真さを表したその人間の姿をしたものは、しばしば裸で描かれ、戦争の舞台へと引きずり出され、残酷な目に合って行く。絵画は映画で動くアニメーションとなって、命を吹き込まれて、その姿をスクリーンに現した。

戦争は少女率いるアビエニアと、子供奴隷制度を強制する国家グランデリニアの戦い。ヴィヴィアンガールズという、7人の少女達がグランデリニアの大人達と戦う。映画では、その戦争の一部始終がヘンリー・ダーガーという人物像と交差しながら断片的に展開され、少女達のダーガーへの愛と、ダーガーの少女への愛が感じられた。

最も興味をそそられるのは、少女達についているペニス。なぜ少女にペニスを描いたか、という謎。
少女でありながら、戦争で戦うという男性的な行為に対して、その「武器」とも「防具」とも「弱点」とも考えられるペニスをつけて戦わせたかったのか。それともなければ、「人間」という生物に対する根源的なインスピレーションを感じて描いたのか。人は受精卵から少しずつその形を形成していく過程で、基本的には男女両性の外性器は全く一緒でどちらの性へも分化できる能力を持っている。そういう意味も含めて、人は皆、少女のような存在であり、男性器を持つことによって、この世を戦争へと導いていると言わんとしているのか。

ダーガーという人物に対しては、毎日、数時間おきに、天候を記録していたというエピソードが面白かった。温度、湿度、天候をきっちり記載し、「天気は誰にも予測できない」と断言し、天気予報士の間抜けさを笑っていたというから、可笑しい。

撮影現場。 その2

2回目の撮影は主に研究室での実験風景。
先月引越しを完了したばかりの新しい、研究室で、冷凍庫からの検体取り出し、組織の薄切、LCMでのがん細胞の切り出し作業を撮る。

LCMというのはレーザーマイクロダイセクションという装置で、スライドガラスに、薄く切り出した組織を乗せて顕微鏡で拡大する。拡大した組織の画像は、モニターに映し出され、モニター上をコンピューターで操作しながら、タッチペンのようなもので、必要な領域を囲む。ペンで囲まれた領域は、スライドガラスの上でレーザー光が走り、チューブの蓋の裏側に落ちるようになっている。

器官によって異なるが、組織を構成している細胞は、均一に単一の細胞で成り立っているわけではなく、がん組織であっても、がん細胞や正常細胞以外にも様々な繊維や細胞が混じっているので、分子生物学的な実験では、厳密にがん細胞だけを取り出す必要性があるのだ。

がん細胞内の“状態”を調べることが目的なので、がん細胞だけを必要量集めてきて、DNAやRNAを抽出する。抽出するDNAやRNA量は、実験にある程度の量を必要とするため、複数の細胞を切り出しているが、もう少し厳密なことを言えば、個々の細胞はそれぞれ状態が異なってるため、異なった細胞の状態のものを一度に見ていることになる。もう少し技術が進めば、単一の細胞内の状態のみを調べる方法も確立されてくるかもしれない。

お料理番組のように、抽出したRNAはDNAマイクロアレイにかける振りを行い、Affyの実験、データと解析作業の絵をいくつか撮り、最後は先生のコメントを入れ込んで終了。先生のセリフを事前に考えておいたわけだが、実際に本番になると、言い回しにおかしいところがあったり、別の撮影場面でも台本を直さないといけない時があり、自分の書いた言葉の重さを思い知らされたのであった。だって、撮影が始まってしまえば、台本どおりに進めようとするため、基本的に見直したりはしないから・・・

作業をお願いした会社の方に、「以前に撮影現場に携わったことってありますか?我々の動きをすごくよく把握しておられる。カット割とかもちゃんと分かってますね」と言われた。現場経験は初めてであったが、その時は、なんだかとても嬉しかった。でも、いくら自分がそれに対して、興味の度合いが強く、うまく立ち回れたとしても、実際にそれを生業としている人にはとても叶わない向こう側の世界であることには変わりなかった。それを実感したとき、やっぱり少し寂しい気持ちになるのだった。

私の男

私の男私の男
(2007/10/30)
桜庭 一樹

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この作家の本を初めて読んで、とても素敵な出会いがあったときみたいな気持ちになれた。
この物語は、主人公の花とその父親との愛情についての話であった。タイトルの私の「男」とは、いわば、花の父親のことを指す。彼女が9歳の頃から養父として一緒に暮らしている父親、淳悟との関係。
主人公の花も魅力的ながら、それと同じくらい輝いて見えるのが淳悟。彼のような男が本当に居るとすれば、私も、花のように愛するかもしれない。
普通ではない親子愛なのに、同情する。羨ましい、と思う。そして、切ないのだ。

物語は第1章から第6章まであり、花が24歳の時から始まり、9歳までさかのぼり、時系列に逆らって進んでいく。つまり、結果が先にあって、その理由が語られるような感じだ。すべて読み終わると、どうしても最初の章を読みたくなるように構成されているみたいだった。

日曜の結婚式の帰り道、私は、もう一度この本の第1章を読み返した。
第1章は、花の結婚式だった。

現実の私は結婚式に参列し、花嫁とその父親への愛情を目の辺りにして、結婚式とはいわば、親孝行の為にするものだ、と実感した。同時に、親との別れ…一般的に、娘が今まで育った家を「出て」、花婿となる家に「嫁ぐ」、わけだから、育ててくれた母と父との「別れ」でもあるのだ。

その「別れ」である、小説の主人公、花と淳悟の別れをもう一度、反芻して…、描かれていないけれども、きっとこの世から居なくなった淳悟のことを想うのだった。

そして、自分が結婚式で両親に感謝の意を述べられる日は来るのだろうか、とそんなことを考えてしまった。

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