ありとあらゆる手段を講じた就職活動

クビとなった私は、この日を境に気持ちの決心がつき、最終勤務日を迎えるまでいつもと同じように働き、1.1年休まずに奮闘して働いた職場を後にした。いつもと変わらない最終日ではあったが、夕方に会社を後にする際には、職場の人から小さな花束をもらった。帰りの駅までの道のりは風が冷たくてとても寒かったのを覚えている。

友人からは、労基署に訴えた方がいいなどと言われたが、私としては過去よりも未来が大事であった。思い起こせば、様々なことがあったが、暴君な社長もある意味その性質がなければ社長などできないはずであろうし、小さい会社が利益を上げるには、お金にうるさいのも仕方がないことであったと思う。

悪いことばかりでもなかった。最後に入社してきた若い女の子とは意気投合し、つながりを持つ関係になることができたし(私が辞めた2か月後くらいに彼女も退職し、今は無事、この時をきっかけにして掴んだ新たな職場で活躍している)、小うるさい厳しい先輩のおかげで、結果的に、デザイン面も技術の鍛錬になったと思う。

デザイン事務所を辞める前に、社長命令で始めていたイベント事業を調べている際に、あるきっかけがあった。一つは、会場を調べているときに、近くに新しくて綺麗な施設を見つけたこと。もう一つは、以前から気になっていた企業が面白い学会を催しており、その学会を協賛していた団体組織が、例の施設を運営しているのと同じことに気が付いたことだ(それこそが私が後に勤めることになる組織である)。

就職活動ではありとあらゆる手段を使って仕事を探した。片端から転職サイトや派遣会社に登録をしては隅から隅まで探索し、ハローワークに行ったり、例の学会で知り合ったベンチャー企業に連絡を取ったりして、いくつかの面接にこぎつけた。例の団体組織は、求人を出していなかったのだが、問い合わせフォームからダメ元で、「もし求人をすることがあったら応募したい」という旨を連絡したところ、面談しましょうという返信が届いたのだった。

これまでの人生の中で、様々な「面接」をする機会があったが、いつの時も、うまくいかなかったときは、心から真に自分が「行きたい」と望んでいないことが問題だったように思う。本気でそれに取り組む覚悟があって、いつでも働ける状態に自分の気持ちやスキルを保っていれば、希望はかなうように思う。日本という社会は、本人が望みさえすれば、様々な窓口や支援してくれる人や、ある程度の援助が揃っている。問題は「望みさえすれば」というところだが、「意思表示」や「行動」が大事なので、多くの行動を起こしたことで結果が得られたということを改めて実感した就職活動であったのだ。

小さな会社で起きたこと

その会社は、小さくて古い雑居ビルのワンフロアを占めていた。ワンフロアといっても、エレベーターから降りて、共用トイレと洗面所があり、応接スペースと作業用デスクを6つも並べれば手狭になるようなところだ。

デザインを勉強したとはいえ仕事では未経験という肩書きの立場上、アルバイトという形で仕事を始めだが、内定だけでは保育園に入れず(保育園というのは働いていないと入園できないが、働こうと思っても預け先がないと働けないので矛盾でしかない仕組み)、一時保育で予約が空いている園を転々としながらの就業スタートだった。
運良く1名の空きが出るという話を見学しに行った幼児園の園長から教えてもらい、途中入園することができた。

上記のような事情もあって、雇用条件や契約内容についてこちらからの要求を出せるような状況でもなく、第一歩を踏み出すことが何より大事だった(実に6年ぶりの会社勤務である)。

しかし、最初の面接のときから気にはなっていた「なんとなく嫌な予感」というのは当たるもので、応接室に置いてあった奇妙な写真画や入口の剥がれたロゴマークなどを見ると、この会社を象徴しているようでもあった。

社長を合わせても数名の小さな制作会社である。普段はどこにいるのか(近くのビルにいるらしい)、社長は神出鬼没の存在で、荒々しく事務所に現れたと思うと、全員が一斉に立ち上がり挨拶をすることが社長命令というような理解に苦しむ組織であった。
理不尽なことは、働いた日数が蓄積されるごとに、増えていった。ようやく、会社の全体像を理解し始めたといってもよかった。

アルバイトという雇用形態ではあったものの、私はフルタイムで働いていた。
社員は当番制で、週に1回程度朝早く出勤して事務所全体の掃除をするのだが、アルバイトの私は毎日が掃除当番であった。また、10時から1時間、応接スペースで業務報告のミーティング(といっても半分は雑談)をするのだが、アルバイトは参加できないというルールになっていた。
保育園のお迎えがあるために、退勤は遅くても19時頃であったが、この会社に勤めた1年間の間、私より早く帰宅した人はただの一度も見たことがなかった。また、給与は日給で、残業代は支払われなかった。
ある日、アルバイトでもフルタイムであれば社会保険に入れる資格があるというのを知って、相談したところ、「アルバイトだし、フルタイムで働くなんて想定していなかったからさ」と却下された。

働き始めてから数か月経った頃、社員の中では若くて技術のある人が退職することになった。その人は美大を出て新卒でこの会社に入ると同時に上京し、謙虚に数年間、働いてきたのだったが、ついに退職を決意したのだった。最終勤務日の送別会には私も同席したのだが、始終、社長はその女性に対して説教をし続けた挙句、逆切れして怒鳴りだすような顛末だった。帰り際、彼女は泣いていたが、何より退職できたことを心から喜んでいたように思う。

私の方も、やはり転職活動をしなければと焦っていた。職務経歴に傷をつけるというのは大げさだが、何をするにも短い期間で放り投げるというのができない性分でもあって、次の仕事が見つかるまでは、辞められないという気持ちがあった。
しかし、求めるような仕事を見つけることは簡単ではなく、相談しに行った転職エージェントからも「そんな求人みたことないですね」と言われる始末。「勤務経験が半年というのと、5年というのでは意味が全然違います」と一蹴され、まずは現状打破から始めることにした。

毎日、仕事場のデスクで一人、間仕切りの向こう側から聞えてくる談笑を聞くのが嫌だったので、この会議に参加するため、「業界用語のレクチャーをするので参加させてほしい」と提案した(この分野の知識があるのは私だけだった)。提案は功を奏して、金曜だけは輪の中に入ることができたが、毎週木曜の夜は帰宅後、子供が寝た後で資料作成の準備をするために深夜遅くまでかかっていたので、金曜の朝はいつもヘロヘロの状態であった。

季節は秋になり、一人の若い女の子がまた入社してきた。(またというのは、この短い期間に入ったが即座に辞めた人がいた)
彼女は、私と同じバックグランドを持っていた。国立大学を卒業後、定職に就けず、派遣の仕事で製薬会社などを転々としてきたのだが、専門スクールでデザインを習い、この分野のデザインを仕事にしたいと飛び込んできたのだった。器量があって、賢く、元気で明るい子だったので、とても気が合った(一番、まともだった)。
ただ、彼女が希望をもって入社してきた半面、ここに長く居ることができないという気持ちを伝えなければと思っていた。

2016年も年末に差し迫った師走。
社長への報告会というのを催していた。そこでは、半年から1年を振り返り、各自の目標や実績について報告をする会になっていたが、私の方は、突発的に社長が言い出した「イベント事業をやりたい」という一言から始まった要求に関して企画や提案の切り口を発表するという機会があった。社長は益々やる気になって喜んではいたが、いま思えば、ほかの社員にとっては気乗りしない仕事だと感じていたのかもしれない。私の方は、社長と会話ができる数少ない機会だったこともあって、せめて福利厚生を何とかしたかったので、再度その話を持ち掛けてみたところ、正社員するという口返事をもらうことができた。しかし、一方で正社員になってしまえば、さらにこの会社に従事しなければいけなくなるため、それで良いのだろうか?という自問自答があった。

年が明けて、また普段の日常を取り戻すと、管理職の人は「正社員の話は聞いていない」という態度をとるようになった。一方、私は、企画の内容を具体化するために、ブレストを実施したり、調査目的もあって業務外でイベントに参加したり、新しく来てくれた彼女がいたおかげもあって、デザインの傍らさらに仕事に没頭するようになっていた。年が明けて1か月あたりでようやく、社員になるためには目標設定を提出してほしいという連絡があった。目標をすぐに提出し、管理職の人と個別面談の機会が何度かあったが、中々話が進むことはなかった。

2月中旬。この会社にきてから1年が過ぎようとしていた。
働き方の話で管理職の人と例によって堂々巡りをしていると、お互いヒートアップしてきてしまい、管理職の人はついに「嫌ならやめてください」と言いだし、私の方が回答に詰まっていると、「じゃあ、一週間後でいいですか?」と、宣言を振り下ろしたのであった。私の方は、これはもう「わかりました」と返答するしかないと判断し、急遽、中途半端な2月某日に退職することが決まったのである。

つづく

視る世界を変えたグラフィックデザインの学び

新型コロナウイルス感染症が世界中を駆け巡り始めてから早1年以上の月日が経とうとしている。
3度目の緊急事態宣言であまりに時間があって何か変化が欲しいこの頃。どこにも出かけないゴールデンウィークも終盤の土曜の朝から、突然、このブログのことを思い出し、管理画面へのログインに手間取りながら、ようやく文章を書きだすことができた。


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2014年の大みそか。
毎年同じような年末。紅白歌合戦を見て、ゆく年くる年を見て就寝するという、平凡で起伏のない一日の終わり。布団の中で「来年の抱負」がない自分が嫌になり、何かを変えたいという気がふつふつと沸き起こってきた。思えば、これ以上、この生活の中で書き続けることは苦しく、将来性がないこともとっくに気が付いていた。方向転換をしなければと思い、思いあぐねていると、以前に、創作活動にシナリオ以外の技術を身につけようと、訪ねた専門学校のことを思い出し、「学校に行こう」と決意を固め、眠りにつくことができた。

2015年の春から、残っていた貯金をはたいて専門学校に入学し、グラフィックデザインを学ぶ日々をスタートした。専門学校といっても、社会人向けの技術養成コースのようなもので、週末に学校へ行き、朝から夕方まで授業を受け、課題を毎週提出するというようなスタイルだ。平日は、次男の世話と家事を行いつつ、課題をこなして、週末にでかけていく。
土日クラスは、働きながら転職を考えている20代の社会人が多く、若い人に囲まれ、切磋琢磨しながら作品を創るという作業は私を蘇らせることができた。

デザインの基礎を学ぶと、周囲にあるすべての印刷物などの文字や写真の配置が気になる。電車に乗れば、かならず車内広告のデザインがどんな構成になっているのか、見てしまう。

これまでにも様々な制作物を見たりはしてきたが、新しい観察方法を見出した目新しさに、視る世界が変わったように感じた。もっと早く、もう少し早く(若い時に)気が付いていれば(本当はこれまでに何度も、自分にはデザインを求められて作成する機会がたくさんあった)、独学ではなくきちんと習うことができていればと後悔した。

コースに通う目的はそれぞれで、仕事に関連しているので学びに来たという人いれば、転職したい人、すでに技術を持っているが極めたい人など様々だったが、4月にはハツラツとしていた人も、月日を重ねるごとに、フェードアウトする人も多くいた。最後まで休まず講義と課題提出をこなし、卒業制作物を発表することができたのは、現状を変えたいと強く願う人、新しい職業を手に入れたいと決意している人だけだったように思う。

最終発表を終えて、新しい仕事を手に入れられる機会も用意されていたが、私は一般的な広告代理店やデザイン会社に入るというのは、何か違うという気がしていたので、自分のバックグランド(生命科学の知識)に合ったデザインの職探しを始めていた。

予想していたことではあったが、ライフサイエンスに関連したデザインの仕事などというものは求人サイトなどに掲載されることは滅多になく、唯一、都内に業界関連企業を顧客に持つデザイン制作会社を見つけることができ、そこへ自ら裸で飛び込んで行ったのだった。
(それが後によく考えずに飛び込んだ、とんでもない会社であったことは次にまた書くことにする)

ラベンダー苑

母と連絡する頻度が増えた。
今年に入ってからお店のホームページを改造したり、講座用のチラシやレシピを作るのを定期的にやるようになったためだ。
いつものように一方的な注文が来る中、6月になったら久喜にラベンダーを見に行たいというのがあった。ハーブインストラクターという資格を取るほどにハーブへのこだわりのある母にとってラベンダーはやはり特別な花らしい。

久喜市菖蒲町では毎年、あやめ・ラベンダーフェスティバルというのを開催していて、菖蒲町の庁舎の前(写真では奥の建物)に、ラベンダー苑が広がっている。地元のラベンダーにちなんだ食べ物や雑貨などを売る店舗が並んでいた。



訪れた日は梅雨も吹き飛ぶような夏日で、照り返しが強く、花もやや萎れ気味であった。



ラベンダーをこんなに近くで見たのは初めてのことで、香りと色も独特だけれど、とにかく蜂がすごい。ミツバチの数が最も多いが、クマンバチのような大きな蜂もたくさん集まっていた。(写真では蜂が消えているのが不思議だ)



車で一時間ほど走りながら眠りから覚めた我が家のちびっこ怪獣は、車から降りるとき不機嫌最高潮だったが、紫陽花の葉の上に乗っかっていたてんとうむしを見つけて、迷わず指先を近づけているうちに、どうやら機嫌のことは忘れたようだった。



木陰のベンチでラベンダーを眺めながらおにぎりを食べた。
出店で買ってきたおにぎりの具は鮭と梅干で、米には絶妙な塩味が効いていて、誰かのうちでごちそうになった握り飯のようであった。

東京おもちゃ美術館

四谷三丁目から住宅街へ入った一角に東京おもちゃ美術館というのがある。
なぜこんな行きづらい場所にあるのだろうと思っていたけれど、建物の外観を見て納得した。
廃校になった校舎を利用しているのだ。
旧四谷第四小学校の入り口脇には講堂らしきスペースがあり、私が訪れた時、袴を着て竹刀を構える人たちがたくさんいた。近隣住民らの文化施設でもあるようだ。



美術館は校舎の1階から3階までの11教室を利用してそれぞれの部屋に様々な趣向を凝らしている。
赤ちゃんが楽しめる木育広場や、子どもから大人までもが夢中になれるグッドトイ展示室、企画展示室、おもちゃのもり、ゲームのへや、おもちゃのまち、などがある。
子どもにとっては、遊べるおもちゃがたくさんあって、どれもこれもとても一度ではやりきれないほどの種類だろうと思う。



赤ちゃん広場やおもちゃの森には、木製のおもちゃがたくさんあり、その手触りが心地好い。
我が家のちびっこ怪獣はまあるい木のカタマリよりも動くモノの方がいいようだ。
彼は大の独楽好きで1歳になる前から毎日飽きもせず独楽が回るのを見ている。
そしてこの施設には独楽がいっぱい。楽園のようだ。



たかが独楽とは思うなかれ。ただの独楽といっても様々な種類がある。ちょっと探せば本当におもしろい形や回し方の独楽がたくさんある。
我が家にも既に17個もの独楽があるが、世界にはもっと面白い独楽があるようだ。
世界の独楽写真集



写真は“おもちゃのまち”の一角。独楽専門のコーナーがある。
私がほしいと思ったのはこれ(下写真)。
チロリアンルーレットというらしい。

IMG_0964_017.jpg

中央の独楽を回して独楽にぶつかった小さな玉は不規則にあちこち飛びながら、開いている穴に入ったり入らなかったりする。
ゲームではポケットに入った点数の得点を競うようだ。
緑の玉の場合はマイナスなどのルールがあり、小学生になったらぜひ足し算引き算の練習として遊びたい。


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